介護現場にとって、国が旗を振る「生産性向上」という言葉は、どこか冷たく、現場の実情を置き去りにした響きに聞こえる。人手が足りず、目の前の利用者のケアに追われる日々の中で、これ以上どう効率化しろというのか、ICTやロボットを導入したところで使いこなす時間さえない、というのが偽らざる本音かもしれない。しかし、厚生労働省が公表した最新の事例報告を深く読み解くと、そこにあるのは、きらびやかな成功譚だけではないことがわかる。むしろ、当初の計画通りにはいかず現場が混乱した話や、導入した機器が埃をかぶりかけた失敗談、そこから泥臭く軌道修正を行ったプロセスの記録である。
目次
- 平等なローテーションが招いた現場の混乱と再構築
- 魔法の杖ではないICTと紙媒体の賢い共存
- 機器選定を現場に委ねることで生まれる当事者意識
- 見えない負担を可視化し、納得感のある改善へ
- 成功事例の裏にある修正プロセスこそを真似る
1.平等なローテーションが招いた現場の混乱と再構築
業務の属人化、つまり「あの人しかこの仕事ができない」という状況は、多くの施設が抱えるリスクである。これを解消しようと、あるデイサービス事業所では、職員全員がすべての業務を行える「完全な多能工化」を目指した改革を行った。送迎、入浴、記録、レクリエーションなど、あらゆる業務を全員で平等にローテーションしようとしたのである。理念としては正しい。誰が休んでも現場が回る体制は、経営者にとっても現場にとっても理想であるはずだ。
しかし、現実は厳しかった。ベテラン職員は不慣れな業務に時間を取られ、得意分野で力を発揮できないストレスを抱え、経験の浅い職員は次々と変わる業務内容についていけず、ミスを連発した。結果としてケアの質は低下し、現場の空気は悪化してしまったという。この事例が教えてくれるのは、無理な平等の追求は、かえって生産性を下げるという冷厳な事実である。
この事業所が優れていたのは、その失敗を認め、すぐに「適材適所」へと舵を切り直した点にある。全員が同じ回数だけ業務を担当することに固執せず、苦手な業務がある職員にはフォロー役についてもらい、得意な職員がメインを担当する比率を増やすという現実的なシフト調整を行ったのである。属人化の解消は、全員が同じレベルで実務をこなすことではなく、マニュアルや手順書を整備し「いざという時に代われる状態」を作っておくことで担保する。日々の業務においては、個々の得意・不得意を認めた柔軟な配置こそが、職員の心理的負担を下げ、結果として長く働ける環境を作るのである。
2.魔法の杖ではないICTと紙媒体の賢い共存
国は介護ロボットやICT機器の導入に多額の補助金を出し、デジタル化を推進している。しかし、現場からは「タブレットの画面遷移が多くて情報が見づらい」「入力に時間がかかり、結局残業が増えた」という声が後を絶たない。ある特別養護老人ホームの事例でも、見守り機器やインカム、記録システムを一気に導入しようとした結果、端末の確保が間に合わず、現場が混乱した様子が報告されている。
ここで重要なのは、すべてをデジタル化しようとしない「割り切り」である。成功している現場ほど、実はアナログを上手に残している。例えば、日々のバイタル記録や介護記録はタブレットに入力してデータ化するが、その日の重要事項の申し送りには、あえて紙のバインダーやノートを併用して回覧するという「ハイブリッド運用」を公認のルールとしているケースが見られる。
ICTツールは万能ではない。一覧性や閲覧スピードにおいては、紙の方が優れている場面も多々ある。デジタル化自体を目的にしてしまうと、現場は「入力作業」そのものに疲弊してしまう。高齢の職員が多い職場であれば、無理にキーボード入力を強いるのではなく、スマホの音声入力機能を活用したり、どうしても難しい部分は手書きのメモを許可し、後で得意な職員が入力したりする運用も立派な生産性向上策である。ICTに振り回されるのではなく、現場が「使いやすい」と感じる着地点を、現場主体で探っていく姿勢が求められている。
3.機器選定を現場に委ねることで生まれる当事者意識
新しい機器を導入する際、トップダウンで「来月からこれを使うように」と指示が出されることはないだろうか。経営層としては良かれと思っての判断でも、現場からすれば「また勝手に決められた」「使い方もわからないのに」という反発心しか生まれない。これを防ぐための最も効果的な方法は、導入前の選定プロセスに現場職員を巻き込むことである。
ある施設では、介護リフトや特殊浴槽の導入にあたり、複数のメーカーからデモ機を取り寄せ、現場の職員たちに実際に使って評価してもらう期間を設けた。カタログスペックや価格だけで決めるのではなく、「操作感はどうか」「狭い居室での取り回しはどうか」といった肌感覚を重視したのである。このプロセスを経ることで、職員たちは「自分たちが選んだ機器」という愛着と責任感を持つようになる。
さらに重要なのは、パート職員も含めた多様な立場の意見を聞くことだ。夜勤の専従者、入浴介助の担当者など、それぞれの視点で見える課題は異なる。「自分たちの意見が反映された」という事実は、その後の運用定着に向けた強力なモチベーションとなる。機器を買うことはゴールではなく、スタートに過ぎない。そのスタートラインに全員で立つための準備こそが、導入の成否を分ける鍵となるのである。
4.見えない負担を可視化し、納得感のある改善へ
現場が抱える「忙しさ」の正体は、意外と見えにくいものである。ある施設では、夜勤帯の業務負担を軽減するため、見守りセンサーを導入すると同時に、職員の動線を可視化する調査を行った。すると、センサーの反応に合わせて訪室を繰り返すあまり、かえって移動距離が増え、業務が分断されている実態が明らかになった事例もある。また、別の事業所では、介護記録の入力漏れが多発していたが、その原因を深掘りすると、単なる怠慢ではなく、「入力することのメリット」が現場に伝わっていないことが原因だと判明した。
そこで、記録データが日々のケアプラン見直しにどう役立っているか、さらにはそれが事業所の収益(加算取得)に繋がり、最終的には職員の処遇改善に還元される仕組みであることを丁寧に説明した。すると、職員の意識が「やらされ仕事」から「自分たちのための業務」へと変わり、入力率が劇的に改善したという。
また、「抱えない介護」を推進するためにリフトを導入しても、現場ではつい手で抱えてしまうという課題に対し、「リフトが使いにくいから」ではなく、「人手不足で応援を呼べず、一人で抱えざるを得ない」という真因を突き止めた事例もある。このように、数字やデータ、そして対話を通じて「なぜ忙しいのか」「なぜできないのか」を可視化することは、精神論ではない具体的な解決策を導き出す第一歩となる。
5.成功事例の裏にある修正プロセスこそを真似る
厚生労働省が発表する事例は、どうしても華々しい成果ばかりが強調されがちである。しかし、私たちが本当に参考にすべきなのは、その結果に至るまでの「泥臭い修正プロセス」である。どの施設も、最初はうまくいかず、現場からの不満が噴出し、運用ルールを何度も書き換えている。
例えば、ICTツールの入力率が一度は上がったものの、年末の繁忙期に再び低下してしまった際、改めて朝夕のチェック体制を強化して持ち直した事例などは、まさに現場のリアルである。「一度決めたルールが守られなくなるのは当たり前」という前提に立ち、定期的に見直す期間をあらかじめスケジュールに組み込んでおくことが、改善活動を長続きさせる秘訣と言える。
生産性向上とは、決して今いる職員を減らすことではない。無駄な間接業務を削ぎ落とし、生まれた時間を利用者と向き合うケアの時間に充て、職員が心身ともに健康に働き続けられる環境を作ることである。それは結果として、離職率の低下や採用力の強化、ひいては施設の存続に直結する。特別なシステムや高価なロボットがなくても、業務の棚卸しや、申し送りノートの書き方の見直しといった、お金のかからない小さな改善から始めることはできる。失敗を恐れず、現場と対話しながら小さな修正を積み重ねていくこと。その地道な歩みこそが、皆様の施設を「働きやすく、選ばれる施設」へと変えていく確実な道筋となるはずである。
小濱 道博 氏
小濱介護経営事務所 代表
C-SR 一般社団法人介護経営研究会 専務理事
C-MAS 介護事業経営研究会 顧問
昭和33年8月 札幌市生まれ。
北海学園大学卒業後、札幌市内の会計事務所に17年勤務。2000年に退職後、介護事業コンサルティングを手がけ、全国での介護事業経営セミナーの開催実績は、北海道から沖縄まで平成29年 は297件。延 30000 人以上の介護業者を動員。
全国各地の自治体の介護保険課、各協会、介護労働安定センター、 社会福祉協議会主催等での講師実績も多数。「日経ヘルスケア」「Vision と戦略」にて好評連載中。「シルバー産業新聞」「介護ビジョン」ほか介護経営専門誌などへの寄稿多数。ソリマチ「会計王・介護事業所スタイル」の監修を担当。
